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舟橋(ふなはし)は、富山県富山市の松川にかかる富山県道208号小竹諏訪川原線の橋。江戸時代には神通川に架かる日本一の船橋として著名になる 〔『源貞氏耳袋』第8巻8、13頁。〕。1998年(平成10年)には日本百名橋に選定されている。 == 橋の歴史 == === 船橋時代 === 越中富山の城下町(富山城)の北側を蛇行しながら流れる神通川の橋として、隠居し富山城を居城とした加賀前田家2代前田利長が1606年(慶長11年)に舟の上に板を渡して人馬を通した。それ以前は街道を北側(左岸)から城下町の北東部(右岸)へ渡し船で行き来していたが、船橋が架けられたことで街道が町中を通ることとなり、これにより町は西側も発展し再開発が進み拡大した。藩主が前田利次の時代になると、以前よりやや上流側に架け替えられ1882年(明治15年)まで継続された。江戸中期には長さが約430mもあった。 船橋は両岸に鎖杭という太さ4尺(約1.2m)、地上部分の長さ1丈5尺(約4.5m)もある欅の柱をそれぞれ2本立て、太い鉄鎖(一つ長さ約25cm)を両岸より渡し、その鎖に長さ6間余(約10.8m)、幅6尺2寸(約1.9m)、深さ1尺7寸5分(約53cm)の舟を64艘浮かべ繋ぐ。鎖は中央で鍵で繋ぎ碇をつけて川底に固定した。舟の上には長さ5間2尺(約9.6m)、幅1尺2寸以上(約36cm)、厚さ3寸(約10cm)の板を4列で32枚を掛け、大水のときには規定水位を超えると鍵を外して橋を切り離し流失を防いだ。また橋を切り離し再び繋ぐまでは渡し船を出していた。なお後に、板は7列に、鎖は1649年(慶安2年)以降、雄雌2条の鎖に変更されている。 江戸時代には他所にも舟橋はあり、福井には長さ約218mの九頭竜川舟橋(越前舟橋・現九頭竜橋)、盛岡には長さ約200mの新山舟橋(南部舟橋・現明治橋)などがありそれぞれ図会(ずえ)が残されており、いずれの橋もほぼ真っ直ぐに描かれている。しかし日本屈指の急流であり、春には特に水量が増え川幅も広い神通川の船橋は、初代歌川広重が「六十余州名所図会」に「冨山船橋」として描くなど、多くの浮世絵などの図会が制作されているが、いずれの図会も川の流れにより大きく下流側に弧を描く橋が描かれており、そのダイナミックな姿や、「東遊記」など多くの紀行文などが他国に紹介されたことにより、城下町の中央を流れる日本一の船橋として、また奇観として全国に知られることとなり、立山と共に越中名所の一つとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「舟橋 (富山市)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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